「VR温泉に入ったらバーチャル湯冷めで風邪ひいた」 VRで現実の感覚を覚える 「ファントムセンス」とは何なのか
2022年03月26日 20:03
「VR温泉に入ったらバーチャル湯冷めで風邪ひいた」 VRで現実の感覚を覚える 「ファントムセンス」とは何なのか

 VRの世界で温泉に入ったら、“バーチャル湯冷め”して風邪をひいた――そんなVR未経験の人には信じられないような話が、現実世界で起こっているそうです。 【画像】VR温泉に入っているところ  現実には起きていない感覚を覚えるこの現象、通称「ファントムセンス」はどうして起きるのか。自分もVRの世界に入ったら、同じようなことがあるのか。実に興味深い事象ですね。  そんな事象について解説しているのが、2017年からVTuberとして活動する「バーチャル美少女ねむ」さんの著書『メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』(技術評論社)。同書が「ITエンジニア本大賞2023」で大賞を獲得したことを記念して、内容の一部を転載させていただけることになりました。そこで、同書の中でも特に人気のある、「ファントムセンス」に関するパートをここに掲載いたします。  VRによって、人間は新たな感覚を“生やす”のかもしれません。 「バーチャルでなりたい自分になる」をテーマに2017年から活動している自称・世界最古の個人系VTuber。個人がVTuberを始める方法を公開し、その後のVTuberブームに貢献。2020年にはNHK人気番組「ねほりんぱほりん」に出演しお茶の間に「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の衝撃を届けた。ボイスチェンジャーの利用を公言しているにもかかわらず楽曲『ココロコスプレ』で歌手デビュー。自筆小説『仮想美少女シンギュラリティ』はAmazon売れ筋ランキング「小説・文芸」部門1位を達成。フランス日刊紙「リベラシオン」・朝日新聞・日本経済新聞などで、VR文化に関する掲載歴多数。YouTubeチャンネル:https://www.youtube.com/nemchan_nelTwitter:https://twitter.com/nemchan_nel ファントムセンス概論  ソーシャルVRの原住民は実際にどのような「ファントムセンス」を感じているのでしょうか。よく話題に挙がるものから順に紹介します。 ・落下感覚  感じる人が最も多いと言われており、ほとんどの人が感じます。ソーシャルVRのワールドには高さがあるものもあり、例えば移動の際に建物から飛び降りるなど、高いところから落ちるときに感じます。VRに限った現象ではなく、テレビゲームなどでも、操作しているキャラクターが落ちるときにぞわっとした感覚を感じる人は多いと思います。VRだと一人称視点の没入体験になるため、それよりも遥かに強烈な体験になります。慣れないうちは高所から下を見下ろしたりするとかなり恐怖を感じます。 ・風の感覚  こちらも非常に多くの人が感じやすいもので、代表的なものが他人の「吐息」です。ソーシャルVRに限らず、VRの恋愛シミュレーションゲームなどで顔を近づけて来た女の子の吐息を感じてのけぞってしまう事例は有名です。聴覚によって引き起こされる側面が大きいと言われており、音声による擬似感覚を楽しむいわゆる「ASMR動画」などでも、吐息の音声を聞いて耳元にざわっとした感覚を得たことのある人は多いと思います。  ソーシャルVRだとこれに加えて、物理現実で言うところの自然界の風にあたる「ワールドの風」を感じることがあります。例えば、ワールドの木々の揺れかた、空気の中の塵の動き、自分の髪の揺れ具合などによって、その世界の風を感じることがあります。本書ではこれは吐息とは分けて扱います。 ・触覚  5章でも詳しく解説したソーシャルVRにおけるアバター同士のスキンシップの際などに、まるで自分のアバターの身体が実際に触られたかのような感覚を覚えることがあります。多くの場合はふわっとした僅かな感覚であり、仲の良い相手とスキンシップをしてそれを楽しむことが一種の文化になっている場合もあります。ただし、感度が強い人の中にはかなり不快感を覚える方や、叩かれたりすると「痛覚」と言えるレベルの感覚があるという人もいるので注意が必要です。  私はあまり強くないですが、フルトラで常に脚を動かしていることもあってか、太ももなどを触られたときにざわっとした触感を感じることがあります。 ・温度感覚  ソーシャルVRのワールドには、水中や温泉など温度を感じさせるものが数多くあり、熱さや寒さを感じることがあります。  私は特に温度を感じやすく、そのときの物理現実の季節と極端にかけ離れたワールドに行くのは苦手です。例えば、温泉のワールドでなんとなく身体の熱さを感じて服を脱いでしまったら、そのあと「バーチャル湯冷め」して風邪を引いてしまった、なんて話も聞きます。 ・味覚・嗅覚  ソーシャルVR内で食べ物や飲み物の3Dモデルを顔に近づけられたときや、食べる仕草をしたときなどに、味や匂いを感じるという人も一定数います。  私自身は一度も感じたことはないですが、食べ物を顔に近づけられると空腹感が刺激されて夜中に食べてしまって後悔することが多いので、それとは関係なく止めてほしいです。  このように「ファントムセンス(VR感覚)」によって、さまざまな感覚を感じることがあるようです。当然ソーシャルVRの住民でも全く感じない人も多く、「ソーシャルVR国勢調査」のレポートを見るまでは他の人が言っているのを冗談だと思っていたという声も聞かれました。  いったいどのような原理でファントムセンスが生じるのでしょうか。よく説明として挙げられるのが、認知心理学などの用語である「クロスモーダル現象」と「共感覚」です。  クロスモーダル現象とは、本来別々である感覚が互いに影響を及ぼし合う現象です。例えば、赤い色(視覚)のシロップからイチゴ味(味覚)を連想してしまうことなどが有名です。経験的にセットで起こることが多い感覚同士の結びつきを脳が一度覚えてしまうと、その後は片方の感覚からもう片方の感覚を脳が補完しようとすることなどによって生じると言われています。経験によって後天的に生じるものなので誰にでも起こりうる現象ですが、人によって経験する体験や感じ方が違うため個人差は大きいです。  先ほど挙げたVRの恋愛シミュレーションゲームで映像(視覚)と音(聴覚)から「吐息」を感じる事例はクロスモーダル現象の一種だと考えられますが、異性と付き合った経験がないと感じづらいなど、感じる感覚に極端に差が出るそうです。また、ソーシャルVRで感じるスキンシップも映像(視覚)から「触覚」を感じるクロスモーダル現象の事例だと考えれますが、こちらはスキンシップを繰り返すことにより感じやすくなることが経験的に知られており、現実の感覚と紐付けるためのコツのようなものがあるのかもしれません。  一方、共感覚(シナスタジア)とは、ある刺激に対して、本来起こるはずの通常の感覚だけでなく、異なる種類の感覚も自動的に生じる現象です。例えば音楽の世界などには、音を聞いた際に、音階の高さによって「はっきりと音に色が付いて見える」人がいるそうです。こちらは多くの場合は先天性のもので、一種の特殊能力のようなものです。  このうちの一種で「ミラータッチ共感覚」というものがあります。映画の中の俳優などが身体を触られているのを見ると、自分自身の身体も触られているような感覚をはっきりと得るといった現象です。これは「幻の身体」であるアバターの感覚を感じる現象に近いと言えそうです。特に訓練をしていなくても初めから強い触覚をファントムセンスで感じる人などもおり、そういう人の感覚は一種の共感覚である可能性があるかもしれません。  「クロスモーダル現象」にせよ「共感覚」にせよ、現象が起こっている際の脳活動を調べると、実際に感じている時と同じ脳の部位が反応していることを示す研究があります。つまり、脳にとっては実際にその感覚を肉体で感じているのとなにも変わらないということです。 ファントムセンス実態調査  ソーシャルVR国勢調査で「ソーシャルVR体験中に以下のような感覚を感じたことはありますか?」と聞いたところ、数多くのメタバース原住民がさまざまなファントムセンスを感じてる実情が浮かび上がってきました。また、感覚の種類により、感じやすいものと感じづらいものの差が大きいことがわかりました。以下、「たまに感じる」「よく感じる」と答えた方の合計を比較します。  「落下感(高いところから落ちる時の落下感)」は75%と、やはり一番多くの方が感じていることがわかりました。次いで「吐息(耳元で囁かれた時の吐息)」は53%と、半数以上の方が感じていました。これら二つは先述した通り、VRでなくても日常的に感じる人の多いものですが、VRでもやはり多数の方が感じていることがわかりました。  これら以外では、「触覚(触られたくすぐったさなどの触覚)」が最も高く、なんと45%と半数近くが触覚を感じていることがわかりました。次いで「ワールドの風(うちわで仰がれた時などの風)」が28%、私が強く感じている「温度感覚(ワールドの熱さや寒さ)」は21%とやや少なく、「嗅覚(食べ物や相手の匂い)」は16%、「味覚(食べ物などの味)は8%」とかなりレアなことがわかりました。  さらに、これらファントムセンスの種類の間でそれぞれの相関関係を分析した所、全体として似ている感覚は同じ人が同時に感じやすいということがわかりました。例えば、同じ皮膚感覚である「吐息」と「触覚」(相関係数 r=0.57)、空気を通して感じる「風」と「温度」(相関係数 r=0.57)、化学物資に対する受容感覚である「味覚」と「嗅覚」(相関係数 r=0.66)などは、はっきりと「相関あり」と認められました。  「触覚ファントムセンス」を感じる割合をソーシャルVRのサービス別で比較したところ、感じる人の割合が「バーチャルキャスト」が50%、「VRChat」が46%と、この二つは高い値を示しました。一方で「cluster」は34%、「Neos VR」は31%とやや低い結果となりました。  バーチャルキャストとVRChatの二つが特に高い数字を示すのは、5章の「距離感」「スキンシップ」の傾向とよく似ています。これらにおいては、近い距離感でスキンシップをするカルチャーが特に強いため、それが一種のファントムセンスの訓練となり、感じる人が多くなっているのかもしれません。  一方で、clusterとNeos VRは、2章で見たようにクリエイティブ用途やイベント参加など、ユーザー同士でのコミュニケーション「以外」の目的で利用するユーザーも多くいます。結果に差がついた理由には、そうしたユーザーはあまりファントムセンスを感じるような局面が比較的少ないということも考えられます。  ファントムセンスはプレイするほど強い感覚になっていくとは限りません。  2021年に情報処理学会ヒューマンコンピュータインタラクション研究会で「2021年度学生奨励賞」を受賞して注目された、慶應義塾大学の國武悠人さんの研究「HMD利用経験の有無がVR空間における落下感覚知覚に与える影響」では、「継続的にHMD(VRゴーグル)を利用したことのない」グループと「継続的にHMDを利用している」グループに分けて、感じる「落下感覚」の強度を比較しました。結果、実はVRを利用したことのないグループの方がより「強い」感覚を感じることがわかりました。  このように「落下感覚」は「触覚」などの事例と異なり、VR経験者の方が感覚が弱くなることが知られています。ソーシャルVRなどでは、現実より遥かに高いところからジャンプして飛び降りたり、ビルからビルへと飛び移ったりすることが日常茶飯事です。こうした経験の繰り返しにより、落下感覚がなくなるわけではないものの、ある程度非日常的な落下感覚に「慣れてしまう」といったことは原因として考えられます。  催眠術を用いた専門家によるファントムセンス開発も行われています。VRヒプノセラピスト「Pyloricom(ぴろりこむ)」さんは催眠を使ってファントムセンスを開発する独自のセラピーを世界に先駆けて仮想空間内で多数行ってきました。「ヒプノセラピー」とは催眠を使って行うセラピー療法のことです。日本ではあまり知られていませんが、アメリカなどでは催眠療法は科学的見地から有効な治療法として広く認められています。  Pylorycomさんは「アメリカ催眠士協会(NGH)」の認定ヒプノセラピストで、仮想空間で行う催眠療法「VRヒプノセラピー」を受け付けています。対人関係やストレスなどさまざまなセラピーを行っていますが、実は現在ほとんどの依頼はファントムセンスの開発で埋まってしまっているらしく、アバターの身体のまま実施できる仮想空間のメリットを生かして、日々多くの人にファントムセンスを生やしているそうです。  Pylorycomさん曰く、必要な時間や獲得できる強度に差はあるものの、適切な催眠療法を行えば基本的には誰でもファントムセンスは獲得できるということでした。  これまで見てきたように、メタバースの原住民は「ファントムセンス」によって、アバターを通してさまざまな感覚を感じ取り、他の住人とコミュニケーションをしたり、メタバースの世界を感じ取っていることがわかりました。さらに、その感覚を開発したり強めたりする試みも行われています。もはやアバターは既に、私たちが世界を感じ取るための「感覚器官」であると言っていいのではないでしょうか。  今私たちが感じている「ファントムセンス」はほんの始まりにすぎません。その感覚や活用はこれからますます広がっていくことでしょう。

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