バカリズムはなぜ「女性の友情」をフラットに描けるのか?『ブラッシュアップライフ』で明確になったその作家性
2022年03月20日 18:03
バカリズムはなぜ「女性の友情」をフラットに描けるのか?『ブラッシュアップライフ』で明確になったその作家性

 3月12日、ドラマ『ブラッシュアップライフ』(日本テレビ系)が大好評のうちに放送を終えた。 本作は、脚本家としてのバカリズムの現時点における集大成のようなドラマであり、また、のちに「あれが彼の転換点だった」と回顧されるような出世作になったと思う。バカリズムがお笑い芸人としてある種の天才であることはもはや議論を待たないが、本作において、彼は明らかに脚本家としても腕を数段上げたと言っていいだろう。 【写真】「ヤリモク女性」は搾取されているのか?『来世ちゃん』Pが考える  物語は、埼玉県にあると思しき郊外の街・北熊谷市の市役所に勤める「あーちん」こと近藤麻美(安藤サクラ)が、幼馴染の「なっち」こと門倉夏希(夏帆)や、「みーぽん」こと米川美穂(木南晴夏)らと他愛ない会話を繰り広げながら、何の変哲もない独身アラサーライフを満喫している日常風景で始まる。  ところが、不慮の交通事故により33歳で亡くなった彼女は、死後案内所の受付係(バカリズム)によって、来世はグアテマラ南東部のオオアリクイであると告げられてしまう。再び人間に生まれ変わるのに必要な徳を積むため、彼女は近藤麻美としての2周目の人生をやり直すことになる……というのが第1話の導入であった。  彼はこれまでも数々のドラマ脚本を手がけてはいるが、それらはどこか“長編コントの延長”という趣きがあった。あくまで軸足は“芸人”に置いたうえで、笑いのパターンやバリエーションを広げる実験の場として、テレビドラマというジャンルを借りているように見えたのである。  しかし、本作『ブラッシュアップライフ』は、そんな彼が初めて“脚本家”としてテレビドラマという表現に照れずにまっすぐ向き合って書き上げたテレビドラマ、という印象を受けた。これはあくまで筆者の個人的な見立てであり、本人が読んだらバッサリと完全否定されるかもしれないが、物語の中に笑いのテクニックや作劇のシステムとして以上の、“作家性”とも言うべきこだわりが込められていた気がするからだ。  本稿では、そんな「脚本家・バカリズム」の持つ作家性とは何なのかについて考えてみたい。  脚本家・バカリズムの作風の一つに、日常の些細で地味な会話のやりとりにミニマルなおかしさを見出す会話劇を好んで書くことが挙げられる。 銀行に勤めるOLたちの輪の中に、メイクをせず女言葉も使わない素のバカリズムが制服を着て自然に溶け込み、女性同士のリアルな会話と和やかな関係性を再現した『架空OL日記』(日本テレビ系、2017年)はその代表例だ。  他にも、復讐殺人というサスペンスドラマの体を取りながら、打ち合わせや買い出しのエピソードだけで1話を費やす『殺意の道程』(WOWOW、2020年)や、バカリズムやオードリー若林らが本人役を演じ、芸能人らしからぬ地味な生活と交流を描く『住住』(日本テレビ系・Hulu、2017・2020・2021・2022年)もこの系譜に位置するだろう。  ドラマにありがちな大仰な台詞回しや、劇的な展開を徹底的に排除したアンチ・クライマックス(結末に向けた盛り上がりを作らずに淡々と描く物語のパターン)な作風でありながら、リアルなあるある描写やオフビートな笑いでじわじわとおかしさが持続していく作劇には定評がある。  『ブラッシュアップライフ』でも、その手腕はもちろん健在。さらに、アラサーの女性視聴者をして「バカリズム、なんで私たちのこと知ってるの?」と言わしめたシール交換やプロフィール帳などの平成女子カルチャーの描写や、綿密にリサーチしたであろう薬剤師やパイロットなどの細かい職業あるある、往年のJポップやテレビドラマなどの固有名詞の多用など、その雑談のディテールとリアリティには磨きがかかっていた。  しかも本作では、こうした雑談や固有名詞が単なる小ネタとしてだけでなく、物語の本筋に関わる巧妙な伏線としても使われていたことに注目したい。 第1話の前半でさりげなく配された電話ボックスや父親のへそくり、「ポケベルが鳴らなくて」をめぐるやりとりが、後半で保育園の洋子先生と玲奈ちゃんの父親の不倫を防ぐためのヒントとして回収される展開には舌を巻いた。  また、毎回挿入歌やED曲として流れる往年のJポップが、登場人物の心情とリンクしているのもうまい。 特に、「ふくちゃん」こと福田俊介(染谷将太)がミュージシャンの夢に挫折しなければ、現在の妻と子供に出会えなかったという巡り合わせを描いた第2話で、槇原敬之の「僕が一番欲しかったもの」が流れる選曲は秀逸である。  雑談や固有名詞を、物語を豊かにするディテールとして有機的に機能させるセンスは、やがてあの坂元裕二や宮藤官九郎にも迫るのではないか、と感じさせた。  もう一つ、脚本家・バカリズムがしばしば取り扱うのが、“人生のやり直し”というモチーフである。  そもそも、彼がドラマ脚本家デビューを果たした『世にも奇妙な物語』内の一編『来世不動産』(フジテレビ系、2012年)からして、来世への生まれ変わりが題材となっている。 “前世の行いに応じたポイントの総合点によって選べる来世が変わる”という設定は『ブラッシュアップライフ』の原案と言えるし、バカリズム本人が演じた「亡くなった人に来世の物件を紹介する不動産屋」も、死後案内所の受付係を彷彿とさせる役柄だ。  その後、連続ドラマの脚本を初めて全編通して手がけた『素敵な選TAXI』(フジテレビ系、2014年)は、タクシー運転手の枝分(竹野内豊)が乗る特殊なタクシー「選TAXI」の乗客が、みずから望んだ過去にさかのぼり人生の選択をやり直す話であった。  さらに、2021年に上演された単独ライブ『○○』には、“人生100周目の男”を演じる「1○○」というネタまである。 「小中学校では学年トップの成績だったが、高校ではもともとポテンシャルの高い子に追いつかれ7位、8位に甘んじる」といったセリフもあり、まさに『ブラッシュアップライフ』のパイロット版とも言うべき趣向なのである。  ここまでくるともう、バカリズム自身の中に“前世の記憶を保持したまま人生をやり直す”ことに対する偏執狂的なこだわりがあるとしか思えない。何度も繰り返し描くことを止められない命題こそ、その人の“作家性”であると言えよう。  ちなみに、『ブラッシュアップライフ』ではこれらの設定をさらに整理し、“徳を積む”ことで生まれ変われる来世が決まるシステムが採用された。 特筆すべきは、第3話で受付係が「そもそも人間が一番というのは、あくまで人間の価値観でしかない」と説明するところ。つまり、徳を積めば積むほど人間になれるわけではなく、あくまで希望の生命になるには一定の徳が必要、というわけだ。 「生命に序列はない」とするバカリズムのフラットな生命観や死生観が垣間見えて興味深い場面であった。  このように、本作はタイムリープものといういかにも劇的なことが起こりそうな非日常的な設定でありながら、そこで行われるのは他愛のない会話や地味な歴史改変の妙を楽しむ日常劇である、というギャップやミスマッチのおもしろさを狙っている。  そのことを示すかのように、あーちんが3周目の人生でテレビ局のドラマプロデューサーとなった第5話では、彼女が企画したその名もずばり『ブラッシュアップライフ』に対して、脚本家や監督から「もっと派手な事件が起こったほうがいい」「不倫を阻止するくらいじゃ弱い」「タイムリープする意味ない」とダメ出しされる場面が描かれた。  これは本作に対する自己言及的なネタであり、あるいは企画段階でバカリズムが本当に言われたことなのかもしれない。 いずれにしろこの場面は、「死んでしまった親友の命を救う」「大勢の命を救う」といったドラマティックなことは起こさない姿勢を貫くのだ、というバカリズムの決意表明であるかのように見えた。  やや潮目が変わったのは第6話。自分が手がけたドラマのオンエアを見届けることなく死んでしまい、来世は北海道のムラサキウニと言われたあーちんが、4周目の人生をやり直してからだ。  彼女はこれまで以上に莫大な徳を積むべく、小学生の頃から勉強を頑張って学年トップにのぼり詰めるが、そのせいで3周目まで親友同士だったなっちやみーぽんと仲良くなる機会を逃してしまう。 これまで3人で行っていたドラマクラブの活動にあーちんが入れずにいたり、意を決して輪に入れてもらったシール交換で「接待交換」されてしまったりする描写は、これまでの積み重ねもあって視聴者であるこちらまで切ない気持ちにさせられた。  さらに衝撃的だったのは第8話だ。あーちんたちとは無縁な優等生だと思っていた「まりりん」こと宇野真里(水川あさみ)がタイムリーパーの先輩であり、もともとは彼女を加えた4人の仲良しグループだったという事実が判明。 しかも、まりりんがこれまで人生を5周もしてきたのは、なっちとみーぽんが飛行機事故で亡くなってしまう運命を変えるためだったという目的が明らかになる。  まるで『魔法少女まどか☆マギカ』に出てくる暁美ほむらのように、過酷な宿命を背負って同じ人生を何周も繰り返していたまりりん。そのことを知ったあーちんは、きたる5周目の人生では彼女と協力してなっちとみーぽんを救おうと、飛行機事故を回避するためにパイロットを目指す。  幼馴染の親友3人組による牧歌的なゆるい友情関係を描いていたはずの本作は、ここにきて『まどマギ』のようなあーちんとまりりんの孤高な共闘の物語の様相を見せ始めたのである。  アンチ・クライマックスにこだわっていたはずの本作が、なぜ「死んでしまった親友や大勢の命を救う」ような劇的な歴史改変を目指す展開に舵を切った(かのように見えた)のだろうか。  第8話のラストで4周目の人生を終えたあーちんは、死後案内所の受付係から、来世は望み通り人間に生まれ変われると通告される。にもかかわらず、あーちんは生まれ変わりを拒否し、もう一度5周目の今世をやり直すことを選択する。 このときのあーちんのセリフ「最後は人間に生まれ変わるためでも、徳を積むためでもない人生。来世ではなく今世をより良いものにするため」に注目したい。  あーちんはこれまで4周してきた人生において、中学校の三田先生(鈴木浩介)の痴漢冤罪を回避したり、祖父(綾田俊樹)の薬の飲み合わせが良くないことを指摘したり、玲奈ちゃん(黒木華)が既婚者の宮岡(野間口徹)と不倫関係に陥るのを阻止したり、といった数々の定期ミッションをこなしてきた。 これらの善行はあくまで、来世で人間に生まれ変わる徳を積むため、という打算が目的にある。いわば“来世へのキャリアアップ”のためのやり直しだったわけだ。  ところが、5周目を生きる目的は、純粋に今世をより良く生きて後悔を残さないため。まさに“今世をブラッシュアップ”するためのやり直しであり、この第8話こそ本当の意味でタイトルを回収した回と言えるだろう。  また、最終回でパイロットとなったあーちんとまりりんは、中村キャプテン(神保悟志)に毒を盛ってでも、なっちとみーぽんが乗る便の機長を交代させようと企てる。しかし、そんな劇的で非日常的な犯罪計画は、9周目のベテランタイムリーパーである河口美奈子(三浦透子)が、中村キャプテンの不倫を妻に密告したことによって、あっさりと回避されてしまう。  本作においては、「親友や大勢の命を救う」という物語のクライマックスすら、“機長に毒を盛る”という劇的なイベントではなく、“不倫を阻止する”という地味で他愛のない日常の営みに回収されるのだ。 いかにも思わせぶりに登場した謎の男・浅野忠信が、とんだ肩透かしに終わる展開も、まさに本作を象徴している。  『ブラッシュアップライフ』は、タイムリープによる壮大な歴史改変SFを予感させながら、最後まで徹底して地元や家族や親友といった日常の瑣末なできごとの尊さを描いた。それによって、繰り返される平凡で単調な私たちの日常こそが、実はブラッシュアップできない一度きりの奇跡の連続であり、私たちの世界をいろどる尊い愛すべきものであることを逆説的に提示したのである。  これは、『大豆田とわ子と三人の元夫』に代表されるような、坂元裕二の描く作品世界に近いと言って過言ではないだろう。  最後に、『ブラッシュアップライフ』と、宮藤官九郎が脚本を書いた伝説的なドラマ『木更津キャッツアイ』(TBS系、2002年)との共通点を指摘して本稿を終えたい。  『木更津キャッツアイ』は、東京から少し離れた郊外の地元・木更津からほとんど出たことがない高校野球部時代の同級生5人組が主人公。80~90年代のヤンキー文化圏およびサブカルチャーの小ネタや固有名詞をちりばめた会話劇の妙が特徴である。 窃盗団という裏の顔を持つ非日常的な設定や、巻き戻しで物語のサイドストーリーを明かす斬新な演出によって、繰り返される退屈な「普通」の日常が、実は刺激に満ちていて豊穣であることを逆説的に描く物語であった。  「木更津」を「北熊谷」に、「80~90年代サブカル」を「平成女子カルチャー」に、「窃盗団」を「タイムリープ」にそれぞれ置き換えれば、『ブラッシュアップライフ』が『木更津キャッツアイ』と似た要素を持っていることがわかるだろう。  『ブラッシュアップライフ』において、あーちんの死だけがそれ以外のトーンとは打って変わって異様なまでにシビアな唐突さで描かれるのも、『木更津キャッツアイ』の牧歌的でファンタジックな世界に、オジー(古田新太)やぶっさん(岡田准一)の死が暴力的なリアルさで介入してきたのを彷彿とさせる。  しかし、2つのドラマが決定的に違うのは、『木更津キャッツアイ』が男子同士の連帯と友情を、いわばホモソーシャルなボーイズクラブとして描いていたのに対して(当時の宮藤官九郎脚本はその辺りに関してまだ無邪気で無反省であった)、『ブラッシュアップライフ』は女性同士の連帯と友情を、取り止めのないおしゃべりと、傷つきや闘争のない平和なシスターフッドとして描いた点である。  前述の『架空OL日記』の放送当時、バカリズムの女性同士の会話の描き方が極めてリアルで、ミソジニックな偏見やジェンダーステレオタイプな描写がほぼないことが評判となった。本作『ブラッシュアップライフ』でも、アラサーであるあーちんやなっち、みーぽんが恋愛に依存したり結婚に焦ったりする様子はほとんど描かれず、また男性作家が先入観で描いてしまいがちな“女の敵は女”的な足の引っ張り合いやいがみ合いの場面もなかった。  俗に男尊女卑が根強いと言われる九州の福岡県出身であり、実はバリバリの体育会系で根は武闘派とも称されるバカリズムが、なぜこんなにフラットな女性像を描けるのか? という声はかねてより挙がっていた。  しかし筆者は、彼がホモソーシャルな世界にどっぷり浸かって生きてきた男性だからこそ、その裏返しとして女性同士のコミュニケーションにある種の理想を投影しているのではないかと考えている。  ここまであえて言及するのを避けてきた、脚本家・バカリズムのもう一つの作家性。それは、ホモソーシャルの介在しない女性同士のゆるやかな連帯と、純粋でフラットな友情に対する憧れにも似たまなざしだ。『架空OL日記』はもちろんのこと、『黒い十人の女』(日本テレビ系、2016年)にもその片鱗は見てとれる。  ホモソーシャルな男性同士の絆は、得てして富や権力を誇示し合うマッチョイズムや、達成や逸脱を競い合うチキンレース、あるいは女性の体を性的に消費することを介して結束を確かめ合うミソジニーやホモフォビアに陥りがちだ。 当の男性にとっても、こうしたボーイズクラブの規範は気の休まらない息苦しいもののはずである。  しかし男性は、意味や目的のない無害なおしゃべりや、競争やマウントのない優しくまったりした友情関係は、みずからを女性に投影しないと実現できないと思い込んでいないだろうか。  例えば、メタバース空間においてVTuberなどの男性がかわいい美少女アバターを使うと、女性らしい柔和な外見に引っ張られるように、自身のコミュニケーションスタイルまで親和的・友好的に変化し、他者と打ち解けやすくなるというのはしばしば耳にする話だ。 裏を返せば、それだけ普段まとっている“男の体”への嫌悪と、“男らしさ”の呪縛が強固だということでもある。  “脚本家・バカリズム”は、ホモソーシャルの息苦しさから逃れたい願望をうまく創作に昇華し、女性同士の友情をフラットに描ける信頼のおける書き手の一人となった。 しかしそれは同時に、女性装や女性ジェンダーを借りないと自分の弱さや優しさを開示できない男たちの、倒錯した自意識を浮き彫りにしているのかもしれない。

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